辺野古が東京で語られるということ

友人に誘われ、辺野古基地移設に関する映画(『圧殺の海』)を観てきました。
警察機動隊による建設作業を食い止めるために活動を行う方々のドキュメンタリー作品です。

秘密保護法が可決された時に永田町駅で乗ってくるデモ参加者はサングラスかマスクをつけて、とても不気味。
そもそも、デモ活動なんていう攻撃的で、人と話すツールにもならないようなことに興味持ったところで何の意味があるのかと。

2時間近くに及ぶ本映画の映像からは保安隊-住民間の緊張関係が強く伝わってきます。アメリカも、ここまでの反発を想定していたのでしょうか。
しかし一方では、「お偉いさんが決めたことだし、抵抗したってどうしようもないでしょ…」と、どこか心の隅で思っていました。

映画鑑賞後、普天間出身の大学生(同い年)で活動家の報告がありました。
「「仕方ない」「しょうがない」が一番恐ろしい。そう思うことは、基地建設に加担することだったんだと気付いた」
「地べたに座って抵抗してもいいんだと思ったら、世界が広がり始めた」
など、自分にとっても気付きの多いことを話してくれました。

知識だけ仕入れて頭が良くなったところで、大きくなるにつれて「これはこういう論理だから無理なんだよ」というブレーキ的使われ方がされるようになります。
だからと言って、何かに対して沸き起こった感情を論理で塞ぎ込み続けていると、どこかで爆発が起きるでしょう。

デモが起こらない街より、デモのある街の方が健全です。たとえその行動が”無価値”だろうと、目配せが横行する街に比べたら間違いなく健全です。

メディアを通してその活動を見ている、東京にいるぼくたちは、「なんでこの人たちはこんな”無意味”なことをしてるんだろう」と疑問を持って掘り下げていると、新たな世界に出会えると思います。

テレビを見ていたら、思想家の吉本隆明特集が組まれていたので、紹介します。昭和60年頃の講演で以下のように仰っていました。

「人間が”善いことをしている”と思っているときには、”悪いことをしている”と思った方がいい。逆もしかりです。
人間の善悪あるいは倫理というものはそれほど警戒しないといけない。またそれは思想の一番の眼目です。」

「善いことをしよう!」ということからスタートしても、その人の”善”が普遍な”善”でない限り、何らかの反発が起こります。まずは目の前の問題に注視し体験することから考えることを始めたいですね。